足と靴、理解、常識の段階
人の理解には段階があります。
自分に置き換えてもそれは感じます。
靴作りも同じ様な事があります。
技師習得として靴を学ぶ。
足に合わない合わないと感じる方が正しく靴選びを行い、自分の健康、安心の為に自分の足に適切な環境を求め選ぶ。
言葉を交わしながら、その意味が伝わらない事はよくある事で、いずれこうなるなと予測が出来る靴選び、靴との関わりの中で、人は今ある位置を一番理解している位置として言葉は交わされます。
段階の途中である事に気付いていただけると早い対処や対応が行えるのですが、心の奥底ではどこか理解、納得してはいても認めたくないと言う理解の元、素直に図れない心や理解に大人として自制や自分の問題として素直になるまで身体の悲鳴、足の痛みと付き合ってもらうしか無いのだと。
靴作りの技術も同じ事。
理論で靴を作る事は出来ません。
靴作りの過程ではただやらされている、やるだけで学んだ事と理解する風潮、安易さが教育にはあり、靴作り、人が靴を履く事の上で、作り手は1つ1つの意味、理由がある事を知っていなければなりません。
その理解の段階が未熟なままでは人が履いて痛みや外反母趾などの健康被害の原因を作る靴作りがなされたり、その害、靴に困った方にも対処、対応の出来ない人材育成にしかならず、現実、その確かな育成には学校などを経ても成り立ってはいません。
作る意味、作られる事でその意味を持ち、その意味を履く人が素直に安心を得られる靴作りが本質にはあると私は思います。
靴に対する人の常識にも段階があります。
多くの方の認識、常識を靴、足に困り、相談をお伺いしていて正しく認識、常識をお持ちだど感じる方は少なく、身体は正直、素直に痛みや症状で負担しているのに・・・
と、理解の段階と照らして、お伺い、ご説明をさせていただき、ご自身の判断を尊重いたします。
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